『カチンの森 ポーランド指導者階級の抹殺』

 

カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺

カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺

 

 

原著は2006年にイタリア語で出版されました。著者ヴィクトル・ザスラフスキーはロシア人政治学者であり、本書でアーレント賞を受賞しました。翻訳は全体主義研究の碩学である根岸隆夫によります。

 

ナチス体制下のドイツによる戦争犯罪や虐殺についての研究書は多くありますが、双子とも言えるスターリン体制下ソヴィエトのそれについて日本語で読める文献はあまり多くないのが現状です。

ソヴィエト連邦崩壊以後、機密公文書へのアクセスが可能となり、欧米ではスターリン戦争犯罪に関する研究の蓄積がなされてきました。『共産主義黒書』、『幻想の過去』、『ブラッドランド』といった大作はその成果です。

 

本書は1940年春にNKVDにより特別に編成された処刑部隊が実行したカチンの森の虐殺についての解説書です。著者はカチンの森を「民族浄化」になぞらえ「階級浄化」と定義し、それに至る過程を多くの文書から明らかにします。

戦後いかにしてこの虐殺が隠蔽され、現在も清算されていないかを詳細に記する点で本書は非常に啓発的です。戦勝国となったソヴィエト連邦は、自らの犯罪を追及されないよう「ジェノサイド」の定義を巧妙に操作し、ニュルンベルク裁判において運用しました。また、戦後初期の英米によって実行犯はナチスであるとするソヴィエトの公式発表が暗黙の裡に認められ、国際世論の一般見解となりました。E・H・カーをはじめとする歴史学者もこれに追随したという事実は興味深いです。

ゴルバチョフですらカチンの森については口を閉ざし続け、ついにエリツィンによりソヴィエトが解体されるまでこの事件の責任者は明らかにならないままでした。

 

スターリンの病理的な宇宙の中で実行された多くの犯罪はいまだ全容が明らかではありません。根岸はあとがきで、カチンの森虐殺はモロトフ⁼リッベントロップ体制の合意のもとに遂行されたというノーマン・デイヴィスの仮説を紹介します。NKVDとゲシュタポがザコパネで少なくとも4回会合を行い、ポーランド知識層抹殺とポーランド地下抵抗運動鎮圧の効果的手段について協議したという情報をポーランド亡命政府軍事情報部は入手していました。さらにウクライナ共産党書記長フルシチョフゲシュタポ代表がルヴォフに複数回来たことを認めていることから、この仮説の信憑性は高いと言えるでしょう。今後関連文書を公開するという約束をロシアが守るのであれば、それが出てくる可能性があります。ちなみにザコパネでの会合にはかのアドルフ・アイヒマンも出席していました。

 

カチンの森虐殺は全体主義ユーラシア大陸を席巻した20世紀のケーススタディとして重要だと私は考えます。その意味で本書は示唆を与えてくれるでしょう。